天使だらけの世の中

 

 

付き合いの長い人はもう聞き飽きたと思うんだけど、私は中島らもの『その日の天使』というエッセイが大好きで、読む前と読んだ後とじゃ明らかに人生観が変わった。

 

最近はなんだか疲れていて、このエッセイを思い出す機会が多くあったので改めて話をさせて欲しい。

 

 

まずは作者の中島らものことを紹介したい。

らもは脚本家であり、コピーライターであり、エッセイストである。歌も歌うしラジオでお喋りもする。その活動は多岐にわたる。

彼は若い頃から躁鬱に悩まされていた。アルコール依存から薬物にも多く手を出し、大麻で逮捕されたこともある。

そんな後ろ指を刺されそうな経験や思いを、彼は様々な活動の中で悪びれず赤裸々に語っている。

例えばエッセイでは、どれを読んでも独自の考え方がストレートに描かれており、アルコール依存や薬物も誤魔化すことなく「あれは良かった」「この薬物はやらない方がいい」なんて書いてたりして。

おいおい、と思う話も多いけれど嘘偽りのない文章が私は好きだ。

(ちなみにエッセイ集によっては下世話な話が多いので周りに人がいる時はちょっと読みにくい。)

 

そんな中島らもだが、最後は酒を飲んで階段で転び、頭を打って死んだ。本人らしい亡くなり方で羨ましくもある。

 

 

 

 

話を戻し、そんな中島らもが書いた『その日の天使』というエッセイを抜粋する。

それはこんな内容である。

 

 

"一人の人間の一日には、必ず一人、
「その日の天使」がついている。

その天使は、日によって様々な容姿をもって現れる。"

"心・技・体ともに絶好調の時は、これらの天使は、人には見えないようだ。
逆に、絶望的な気分に おちている時には、
この天使が一日に一人だけ さしつかわされていることに、よく気づく。

こんな事がないだろうか。
暗い気持ちになって、冗談でも”今自殺したら”などと 考えている時に、
とんでもない友人から電話が かかってくる。

あるいは、
ふと開いた画集か なにかの一葉によって救われるような事が。
それは その日の天使なのである。"

 

 

私は友達に紹介されてこのエッセイを読んだのだが、読んだ直後から冗談じゃなく天使が見えるようになった。

 

 

一番はっきりと天使の存在を認識できたエピソードを紹介したい。

 

私は4年ほど前に19年半飼っていたペットの犬が死んだのだが、しばらく沈んで立ち直れなかった。

起きている時はずっと泣いていて、泣き疲れて眠り、また犬が死んだことを思い出して泣いて起きる有様だった。

明るい気持ちになってはいけないと思った。人生の全てだった犬が死んだのに、それを忘れて日常に戻っていく自分が許せなかった。

 

そんな暗がりにいるような生活の中、なんとなくテレビをつけるとたまたま狩野英孝がバラエティ番組でオリジナルソングを歌っていた。

 

内容なんてあってないような歌だったのだけど、それを聴いて私は笑った。それはもう、腹を抱えるほど笑った。

ひとしきり笑った後に、ああ、今日はこの人が、この歌が "その日の天使" だったんだな、と悟った。

 

笑っても犬が死んで悲しいことには変わりなかった。

しかし、苦しみ以外の感情を持つことに罪悪感を覚えていたが、感情は両立するし、悲しみを抱えたまま笑ってもいいのだと自分を許すことができた。

多分 “その日の天使” の存在を知っていたからこそスッと許せたのだと思う。天から遣わされた出来事なら笑っちゃっても仕方がないと。天からの思し召しなら、前向きになるのも致し方ないと。

 

ちなみにそれ以降、私は狩野英孝の大ファンである。それも、YouTube公式のTシャツやらなにやら買うほどに。彼がまた浮気をしようが何をしようが、とてつもない罪を犯さない限りはファンでいる。

私はあの時、それほど救われた。

 

 

 

さて、話を現在に戻したいと思う。

 

私は現在仕事を始めて1ヶ月。

生活はとにかく楽しくて、仕事の同僚は優しい人ばかり。文句なく、充実している。

副業でアルバイトもしている。そちらも刺激だらけで、働けることが自体が嬉しい。

楽しくて楽しくて、自分のキャパシティ以上の仕事をこなしてしまっている。その合間に、全力で遊んでもいる。

最後に家でゆっくり休んだのは何ヶ月前だろうか。そんな生活をしていたら、さすがにちょっぴり疲れてしまった。

 

本業も副業も楽しいが、人相手の仕事なので時々チクッと言われることもある。

普段は気にも留めないそのチクッとが、疲れている心と体に深く突き刺さってしまう。

 

本当に疲れたな。

わかっている。疲れているのもちょっとしたことが受け入れられなくなっているのも全部自分のせいなのである。

どうしようもなくムシャクシャして誰かに当たり散らしたい気持ちもあるが、全部自分の選択で今があるのにどこに当たろうというのだろう。

 

次にチクチク言ってくる客が来たら、あれこれ言いたいな。思ってること全部ぶちまけてやりたいよ。

そんなことできるはずもないけれど。

 

仕事から帰る車の中で、もうやだ、と大声をあげる。

もうやだ、疲れた、やめる。全部やめる。

誰が聞いているわけでもないのに、ひとしきり虚空に向かって駄々をこね、現実の自分に戻る。

 

そういえば普段使っているシャンプーもとっくに切れ、試供品で繋いでいる。ヘアオイルもそろそろ買わないと。

ああ、無償にマックが食べたいな。でも、マックに行く気力もないや。

ガソリンも入れなきゃ。ああ、車の中も汚すぎる。どうにかしないといけないな。

 

 

まあいいか、全部どうでもいいや。今日は家に帰ってさっさと寝よう。

 

家の駐車場についても、疲れすぎて車から降りることができない。車内でひとしきりぼーっとしたあと、ドロドロになった体に鞭打ちなんとか家に入り、犬を撫でてから眠る。

そして、溶けかけている足を引きずるようにしてまた仕事場へ向かうのだ。

 

 

またもや仕事で失敗し、自己嫌悪で気分がどん底まで落ちた帰り道。気持ちが落ち込むと体も辛くなる。

また叫び出したくなる気持ちのまま、ふとカバンの中に目をやる。

 

 

ぐちゃぐちゃになったカバンの中で、友達が作ってくれたマドレーヌの存在に気づく。

 

就職のため他県に引っ越した友達。アルバイトをしているから会いにきて欲しい。と伝えたら本当に会いにきてくれた。それだけでも充分嬉しいのに、手作りの差し入れまで持って。

 

そういえば昔、彼女はオーブンが無いから焼き菓子は作れないと言っていたことを思い出す。

もしかして、引越しの際にオーブンを買ったんだろうか。

彼女だって仕事を始めて忙しいだろうに、私がお菓子を作ると喜ぶから作ってくれたんだろうか。

考えれば考えるほど、どん底だった気持ちが救われていく。

ああ、今日の天使はこれかと思う。

 

マドレーヌを一口食べて、またぐちゃぐちゃのカバンに大事にしまう。

今日の私だけで食べるにはもったいない。残しておけば、明日の自分もきっと救われる。

 

 

マドレーヌの中に天使を見つけて勢いづいたからか、

そこから連日、疲れた心に小さな天使がたくさん遣わされてきた。

 

 

別の日。

残業してクタクタになり帰宅すると、父がマックのベーコンポテトパイを買ってくれていた。私が食べたがっていたから買ってきてくれたそう。トースターで温めたパイをほんの少しだけ、犬と分け合って食べた。暖かくて美味しかった。

 

疲労が溜まりつつあるバイトの休憩時間にお気に入りのカフェでテイクアウト。カフェラテがとても美味しかった。店員さんが顔を覚えてくれていて、手を振って「いってらっしゃい」と見送ってくれた。

 

採血で失敗して凹んでいるとき。

また失敗したらどうしようという気持ちを抱えながら怖々違う患者さんの元に向かうと、私が直前にうまく採れなかったことは知らないはずなのに「どんだけでも刺してええよ」と優しく言ってくれた。

 

などなど。

 

本当に天使だらけである。

 

 

疲れた時、悲しい時、どうしようもなく不安な時。その時々により人からの好意を受け止めることはできても、うまく自分を掬い上げられないことが多くある。

そんな時、これは “その日の天使” なのだと思うと、事実以上に救われる。

もうちょっと腐らずやっていこうかなという気持ちになるのだ。

 

「今回はどんな天使が来てくれるかな」なんて、心の片隅にポジティブな自分が現れたりもする。

 

 

 

さて、そんな感じで今回は “その日の天使” の紹介でした。

 

私は明日からも天使を探しながら、また日々を過ごしていこうと思う。